街の声

財界の右翼勢力団体だった日経連の肝いりで戦後にできたのが産経新聞で、フジテレビは産経グループの放送事業部門のひとつ。ラジオのニッポン放送も傘下にある。日枝氏はフジの労組書記長だったと思うが、鹿内家の追放における論功でのし上がった。

 

2016年に「フジテレビ凋落の全内幕」という新書本を一部執筆したことがある。現在の民放会社は4社すべてが例外なく利益の大半を不動産事業に依存している。売上高は放送事業が5割を占めているが、営業利益は不動産部門が稼ぎ頭である。ざっとそんなところを基礎知識に持っていることが出席する記者の最低条件だろう。

 

タレントに社員を貢がせて出世してきた連中にコンプライアンスを問いただすほうがどうかしている。ビッグボスの不在を糾弾したところで彼らが口をつぐむのは承知の上で聞いているのは致し方ないが、そうなにもヒステリックに「日枝氏が止めないと会社は変わらないと思います!」とがなり立てる必要はない。この会社をどこまで知っているのだ、と聞き返したくなる。

 

記者の地位が相対的に低下している。SNSで語られた情報を妄信する階層にゴミ扱いされる。報道に携わる者は、「いっぱし」の知見が必要不可欠である。だからこそ他人はその言説を傾聴する。町で拾った庶民の声と同格なら、なにも新聞は取らない。その程度の自負がなければ聞いたり書いたりしてはいけない。

 

会見場で自説をぶったりする輩は昔からいる。彼らは例外なく壇上にいる相手と仲が良く、その半数は癒着している奴だ。俺はあの社長と仲がいいんだ、だから好きなことが言えるのだと高を括っている。まあそれでも勉強はしているから、しばらく自説を我慢すれば聞きたいことの一つや二つは質問してくれる。いまそのような記者は皆無だ。面識がないから記者は戦闘的にもなれる。相手の懐に入って聞き出す。そうした手法を否定される世の中になった。聞き出すことが第一義ではなく、質問して目立つことが最優先される。

 

多勢を笠に着たつるし上げ質問が見苦しい。フリーでも既成のマスコミでも構わない。ケンカ腰で聞けば相手が乗ってくるなら高等戦術だが、そんな技量はない。見ている側には選択権があるから、いつどこで誰がなにを聞き、答えようと構わない。しかし歪んだ「世論」が形成されていくのは困りものだ。核心から必死に逃げようとする経営陣と、有象無象の半可通のロングラン。大山鳴動して鼠一匹、といえるだろうか。