他人のためにマスクする

誰がために鐘は鳴るという映画がある。その伝で言えば、外出時、マスクは他人のためにするものである。マスクを付けない自由などというのは、ない。同調圧力などというものでもない。

 

他人(ひと)の嫌がることはするな、である。古今東西、世の人は皆、そう教えられて育った。(マスクを)着けていない者がくたばるのは一向に構わない。しかし、うつされるほうは溜まったものではない。だから外に出かけるときは、たとえイヤでもマスクを着用するのである。

 

理屈をこねてはいけない領域というものがある。集合時間や待ち合わせの時刻を守る。約束を守ることに理屈は成立しない。感染の拡大を防ぎ、防止に努める。感染拡大の抑止力になることを大勢の人が守る。そのことは同調でもないし圧力でもない。

 

 

四の五の言わずにやればいいものを、この男のようにいきがる奴が減らないのはどういうわけだろうか。どこかで生き方を間違えたとしか思えない。マスクをつけると病状(持病?)が悪化するというのなら、してもしなくても、同じ程度で症状が好転しないだろう。息苦しくなるくらいのことで悪化するなら、とっくの昔に悪くなっている。

 

GOTOナントカに関しても同じ。「やって悪化したというエビデンスがない」。ナニ? エビデンスだと。冗談ではない。出るなと言っているのに行けと言っていることがそもそも間違いなのだ。やって良くなった証拠もないのだ。

 

国の政策がこうだから、この男は放置されるのである。